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アラビアンコースト

ノートルダムの鐘 2016/12/29S,30M 及び考察

2016年観劇納めでした。

カジモド…海宝直人(29S)、飯田達郎(30M)
フロロー…芝清道
エスメラルダ…岡村美南
フィーバス…佐久間仁
クロパン…吉賀陶馬ワイス


海宝→達郎→海宝→達郎と順調に交互で来ていると言いたい所だが、そんな強運は持ち合わせていないので前予という有難みのありすぎるシステムで4回目の鐘である。


自分でも何故こんなに鐘にハマったのかサッパリわからない。ていうかアニメの方にそんなにハマらなかったのであまり好きじゃないかなとさえ思っていた。
なんとなくもやもやするので自分なりに原因を考えてみる。

①JCSみがある
似ているっつーかキャストがモロかぶり。敬虔な信徒でありすぎた故に道を踏み外す芝ユ…フロロー。ドキッ☆使徒だらけのノートルダム
特に私は達郎ペテロと佐久間シモンの組み合わせが大好きなので思い出し泣きが余裕である。
つまり何が言いたいかというと、ジーザス観たい。再演まだですか?

レミゼみがある
原作者が同じということもあるだろうが、テナイン的だったり、ワンデイモア的だったりなシーンがある。特に1幕フィナーレは被るなあ。
でもよく考えると私別にレミオタというわけではないので理由にはならない。

③カジモドちゃんがかわいい。
あーたぶんこれだ!だってかわいいもん!
かわいいは正義




とまあ、スッキリ(?)したところで始めよう。
4回観てようやくこの作品の楽しみ方が掴めて来たような気がします(遅)。

◎テーマについて
この物語のテーマについて、アラン・メンケンがインタビューで言っていた『他者を受け入れること*1』について少しだけ。
バックボーンにあるのは勿論マイノリティへの差別と偏見という人類の普遍的な問題だが、この物語の元凶である兄弟、フロローとジェアンの話として考えてみたい。
自由奔放な弟に手を焼く生真面目で敬虔な信徒である兄フロローは、教えに背いてジプシーの女フロリカを連れてきた弟の罪を司祭に告げるが、弟は破門され女と一緒に去ってしまう。
このシーンでフロローが衝撃を受けていることから、正直に罪を告白すれば弟は赦されると当然のように思っていたのだろう。フロローが実に純粋な人物だということがはっきりわかる。だが、弟はそんなことは有り得ないと最初から思っており、フロローは1人取り残されてしまうのだ。全ての始まりである。
もし、このときフロローが愛する弟ジェアンの個性を認め、フロリカを受け入れていたら。教会(司祭)がジェアンを赦し、受け入れていたら。
どうなっていたかは誰にもわからない。だが確実なのは、これから起きる悲劇の引き金にはならなかったということだ。
そして、正義という名の偏見に凝り固まった人間が起こす不幸の連鎖は物語の最後までひたすらに続く。
観終わったあとに考えた。人間にとってほんの少しの寛容の心を持つのはそんなに難しいことなのだろうか。



◎カジモドとフロローの関係性について
この点においては色々な解釈があると思うけど私なりに。
フロローは弟の忘れ形見の奇形児である赤子にカジモドと名付け、ノートルダムの聖域に閉じ込め人目に触れさせないようにして育てている。
カジモドは心優しい純粋な子に育ち、狭い世界の中で友達のガーゴイルたちと会話をしながら健気に生きている。ここでけっして彼はフロローに虐げられて育ったのではないことがわかる。*2
カジモドとフロローの関係性を語る上で外せないのは『陽射しの中へ』というカジモドが外の世界への憧れを歌うナンバーである。*3
フロローはカジモドに「世間は残酷、お前は醜く気持ち悪いから外に行けば嫌がられる」と厳しく忠告する。この場面でフロローの台詞を復唱するカジモドの健気さがあまりにも不憫で私的号泣ポイントでもある。
フロローはこの後も「世間は残酷」というフレーズを何度か口にする。かつて弟を守ることが出来ずに外の世界へ逃し、死なせてしまった自分に言い聞かせるかのように。
カジモドを外の世界に出せば彼もまた残酷な世間に殺されてしまうだろう。弟の二の舞にはしたくない。人間の中に潜む醜い怪物を一番よく知っているのも、怪物の中にある善良な心を一番よく知っているのもフロローなのだなと思う。フロローにとっては、『人間』こそ『怪物』なのかもしれない。だから2幕でエスメラルダに迫り、怪物と罵られたときに人間であることの確信を得たのかな…とか。
多少の歪みはあれど、確かに2人の間にあった愛情は結局最後まで切れることはないのだからせつない。カジモドもまたフロローをずっと愛しているしね。
とりあえず、私はまだ芝フロローしか観ていないので野中フロローを観たら異なる感情を抱くかもしれない。



◎『人間』と『怪物』の差異と、ものの見方について
これもまた大きなテーマだ。
普通の青年が顔を汚しハンデを背負ってカジモドになる演出、そして「人間と怪物どこに違いがあるのか」というフレーズが切々と語りかける。
エスメラルダはカジモドを『人間』と呼び、フロローは『怪物』と呼んでいる。エスメラルダにとっては外見の美醜などは問題ではない。
はっきりと言えるのは、人間だの怪物だのはただの呼称であって、呼ぶ側の人間によって何通りもの意味になってしまうことだ。
だから両者のどこに違いがあるのかと言われたら、「違いは全くない」とも言えるし「たくさんある」とも言えるよね。
カジモドは優しい怪物から醜い人間へ変貌したのか、それとも善良な人間から醜い怪物へ変貌したのだろうか。善=人間、悪=怪物という概念はスタンダードだがそれが全てではない。ものの見方は、見る人によって千差万別で100人いれば100通りの見方や考え方がある。その差異を許容することは、前述したテーマである『受け入れること』に繋がっているのだと私は思う。



◎フロローとエスメラルダの関係性
拗らせおじさん恋をする、と言ってしまうのは簡単だけど、フロローが恋をしたのはエスメラルダという名の『自由』だったのだと思う。
愛する弟を破滅させた『自由』の象徴であるエスメラルダに惹かれてしまったのは、敬虔な聖職者としてひたすら狭い世界で生きてきた彼自身の憧れであった。だが当然それを認めることなど出来るはずはなく、『自由』を抑え付ける(エスメラルダを手に入れる)か『自由』を葬り去る(エスメラルダを処刑する)しか彼には方法がなかった。
『自由』を受け入れるという選択肢は弟が生きていたときからいつだってずっとあったはずなのに。
未知なるものへの『憧れ』と『嫌悪感』は表裏一体だが、それを自覚して『嫌悪感』を捨て去ることができる者は一握りなのだ。
しかしエスメラルダ自身に何の否もないが、彼女の存在がカジモドとフロロー、そしてフィーバスの人生を狂わせたのは確かであり、ノートルダムの鐘は『自由』を求め破滅への道を突き進む男たちの物語とも言えるかもしれない。




◎海宝カジモドについて

このイケメン誰だか知ってる!?!?


すみません、真面目に書きます。
普通の青年が舞台上で醜いカジモドになり、そしてまた普通の青年に戻るという演出のおかげというべきか、普通の青年バージョンのときに凄まじいイケメンぶりを発揮する。なんなら美少年枠(フロローの弟ジェアン)と兼役してくれというレベル。
海宝氏は2枚目役でしか観たことがなかったため、カジモドは新鮮そのものであったし、一番好きな役になるかもしれない。
海宝カジモドは心優しくてピュアな側面が強い。常にどこか怯えているような挙動不審さがある一方、外の世界への羨望を歌う輝きに満ちた表情は希望に溢れているし、フロローが表現する「子供」のような影響されやすい純粋さを持っている。フロローはそんな彼を守るためにどちらかというと厳しく接してきたのかもしれない。*4

開幕前の制作レポート記事などを読むと、カジモドは歌うときは障害がなくなるとのことだが、ミュージカルにおける歌というものは内面世界そのものである。*5
だけど、海宝カジモドは歌うときは声こそ普通の青年のようにはなるものの、表情・仕草などにおいてカジモドを崩すことがないため、自分の障害を受け入れてしまっている気持ちがひょっとすると強いのだろうかと考えたときにふと気付いた。
初めて海宝カジモドを観たとき、私は「彼は選択を間違わなければアニメのような幸せな結末を迎える可能性もあったのではないだろうか」と思った。その理由について、フロローを殺すという彼の選択があくまで衝動的なものに見えたからだと思っていたが違った。彼は、自分自身が自分の障害を受け入れていたからこそ、そんな自分を受け入れてくれる『自由』な世界を求めていたのかもしれない。だからエスメラルダに憧れ、彼女を守ろうとした。エスメラルダに対する感情が愛情よりも羨望を強く感じたのもそのせいかも。*6
結果的に彼の望む世界は実現されなかったし、愛した人をその手で殺めてしまったことも事実だが、それでも彼がエスメラルダと同じ天国に行けることを望んでしまう。それほど、海宝カジモドは誰よりも一歩先を行く自由で平等な世界を夢見た人間だと思うから。



◎達郎カジモドについて
思えばこれまで様々な達郎氏の役を拝見してきてときには血眼になってチケットを探し突発したのもいい思い出だが、そんな私の達郎メモリアル(5年分)についてはここでは割愛したい。
個人的達郎氏の好きな役ツートップはスキンブル(CATS)とペテロ(JCS)なのだが、カジモドは並びそうだ。いや、並んだ。
まあそのつまり、あれだ。スキンブルとペテロを足して2で割ったらほぼカジモドだよ。実質カジモド。


すみません、真面目に書きます。
達郎カジモドについてとにかく言及したいのは、1幕と2幕のギャップだ。
達郎カジモドは明るく好奇心旺盛な側面が強い。もちろん外の世界に出たことはないのだから人見知りはするし自分の醜さも理解はしているが、それよりも好奇心の方が勝って外の世界に踏み出してしまう。ということで、フロローとの序盤のやりとりもほのぼの感がありフロローは彼に対して優しく接しているように見受けられる。*7苺をもらうときの表情なんて最高にかわいい。達郎氏は食べ物が絡んでなんぼである(他意はございません。)。
そんな無邪気で愛くるしい怪物、達郎カジモドは、2幕に入ると段々と業の深さと底知れない闇を抱えた表情を見せるようになる。エスメラルダに出会い、恋をしてからというものの、自分の中の人間に気づいてしまったからだ。
達郎カジモドがフロローを殺めるときの表情はもはや人間(=怪物)そのものだと思った。エスメラルダは死の間際にカジモドに告げた「あなたも美しい」という言葉が酷く突き刺さった。エスメラルダが彼の変貌を知らずに別の世界に行けたことは唯一の救いではあるが、そのとき達郎カジモドは一体何を思ったのだろうか。
海宝カジモドは歌における内面世界で自分の障害を受け入れていたが、達郎カジモドは全く受け入れていない。何故なら彼は人間そのものになる。彼は普通の人間として生きることを夢見ていたのだと思う。
だが、それは到底有り得ない話で彼が幸せになれる世界はどこにもなかった。達郎カジモドの場合、なるべくしてなった結末なのだ。だから達郎カジモドはエスメラルダの亡骸を抱きしめ共に朽ち果てることを選んだ。きっと死にゆく達郎カジモドが見ている永遠ともいえる夢の世界の中で、彼はエスメラルダと世界の頂上で笑いあっているに違いない。




まとまりなく書き留めてみたが、こうして見ると本当に海宝氏と達郎氏の役作り、正反対だと思う。2人とも素晴らしくて大好きだ。大変な役なので喉や身体を壊さないように祈っています。
そしてフロローとかエスメラルダとかフィーバスとかアンサンブルとか美少年枠がどうのとか色々書きたいことはあるんだけどそれはまた次回。
美少年枠がわりとモサ...じゃない、男らしい雰囲気の役者さんを使っていることにも意味はあるのかもしれないし(たぶんない)。

*1:赦すこと、でもあると思う

*2:フロローのカジモドに対するアプローチは遥かにアニメ版より好きだ。

*3:アニメ版の『僕の願い』というタイトルも好きだった。

*4:実際芝フロローは海宝カジモドに対しての方が厳しいと思うのだが、どうだろう?

*5:たとえば同じディズニー作品のリトルマーメイドにおいて、言葉を失ったヒロインアリエルは何度も自らの内面を歌で表現している。

*6:フィーバスと上手くやっていけそうと思ったのもアニメ的結末に行ける気がした理由のひとつ。

*7:あくまで芝フロローの話であって、野中フロローは別だろうが。