Comment lui dire

アラビアンコースト

舞台版『美女と野獣』が好きなオタクが実写版『美女と野獣』について考える。

ここしばらく国内外問わずに巻き起こる実写化ブーム、ありとあらゆる題材を映画のテーマとして取り扱ってきた結果映画産業も行き詰まりなんだろうなとしみじみすること数年、御多分に漏れずディズニーも最近実写ばかりだなと思います。
でもさ、正直な話無理に原作に忠実であろうとするから綻びが生じるわけやん?だからいっそ『マレフィセント』並のオリジナル展開にしたら原作厨も「まあこれはこれで」と寛大な気持ちになれるんじゃないだろうか。
たとえばの話ですけど、アラジンも最後にアラジンとジーニーが二人で世界一周の旅に出るとか。ていうかジャスミンも一緒に旅に出たらいいし。三人で見聞を広めて帰ってきてからジーニーをアラジンの相談相手兼宮廷アドバイザー(?)にするとか。
とまあブロマンスを撮らせたら右に出る者はいない男(ガイ・リッチー)が監督した実写版アラジンに思いを馳せつつ、この度2017年に公開された実写版『美女と野獣』を改めて見返してみました。



実写版BBの公開はもう2年も前でした。
movies.yahoo.co.jp


ちなみにこちらが舞台版。
www.shiki.jp


現在、公演の予定はありません。
という一文が虚しい。




私はこの『美女と野獣』のミュージカルが大好きだし、アニメも何度も観てるんだけれど、この物語はストックホルム症候群であるという批判があることを最近初めて知りました。


ストックホルム症候群とは
誘拐事件や監禁事件などの被害者が、犯人と長い時間を共にすることにより、加害者である犯人に対して好意的な感情を抱くこと。


うーーーん、そうなのか?
ベルは一度は野獣に捕えられるけれど、西の塔に入って野獣に怒鳴られて自分から逃げ出すまではずっと野獣を恐れずに反発している。そして、野獣の支配下から逃れた城の外で狼たちに襲われ、野獣に助けてもらう。そこから逃げ出すこともできたけど、自分を助けるために傷を負った彼を放っておくことができずに一緒に城に戻った。
私はベルと野獣の関係はあの時点で一度ニュートラルになったと思います。命をかえりみずに自分を助けてくれた野獣にベルは感謝したことで少しずつ彼の内面を知りたいと思うようになったんだもんね。

とか言ってたらエマ・ワトソンもなんか似たようなこと言ってたわ。



www-elle-com.cdn.ampproject.org




話が逸れたんですけど、実写版は好きになれない部分とすごく良かったと思う部分が入り混じってて複雑な気持ちを毎回抱いてしまう。大好きな舞台版(及びアニメ版)との比較もしつつ実写版の気になった部分について。





◎ベルが更に現代的で自立した強い女性として描かれるようになる


・読み書きを村の女の子に教える
・自分で発明をする
・モーリスを突き飛ばして自ら牢屋に入る
・ガストンの銃を奪おうとする



こうして見るとベルは一人でもどこにでも行けそうだし、冒険家になれそう。
だけど大好きなパパと一緒に居たいという気持ちと、時代がそれをさせてくれなかったんだろうね。
ジャスミンもアリエルもそうだけれど、1990年前後のディズニー映画において『王子様を待つだけのプリンセス』像の殻は既に破られていて、能力も行動力もある女性たちが自分を取り巻く環境や時代に苦しめられる中でそれを乗り越える話でもある。そして自分らしく生きていく中で生涯を共に過ごしたいと思える相手に出会うだけだった。だけど2010年代以降のディズニープリンセスは更に女性の自立を発展させた形として「もはや王子様すら必要ない」プリンセスが増えていくわけなのだ。


生き方の多様性が問われる時代、どのようなプリンセス像を好むかは個人の価値観の違いによると思うけれど、私は色々な生き方のプリンセスが居ていいんじゃないかなと思います。まあもっと個人的な話をすると私はディズニー映画にはラブストーリーを求めてしまうけど笑。






◎ベルを部屋に案内するのは野獣ではなくルミエール

ここは…ここはさ…変えてほしくなかったよ…

バラの花が散れば永遠に元の姿に戻ることができないのに、バラはもう散りかけている。だけど醜い自分を愛してくれる人なんて現れるはずがないと思っていた野獣にとって目の前に現れたベルは奇跡のような存在だった。
野獣もそのことを自覚しているから、臣下たちに促されてではあるけれど彼女を自ら部屋に案内したのだ。


なのになんで勝手にルミエールが案内してるんじゃーい!!!




◎野獣をインテリにする必要はあったのか?

王子として厳しく育てられた野獣は高等教育を受けていてるし、文学にも精通している。見た目は良くても頭が空っぽなガストン⇔見た目は醜くてもスマートな野獣という対比ではあるのだが、野獣とガストンの対比は原作通り性根の違いだけで表してもよかったと思うし、「何もないところから変わっていく」ができたのが野獣でできなかったのがガストンだと思っていた。
実写版の野獣は最初こそはベルに対して威圧的な態度を取るけれど、全然子供っぽくもないし癇癪持ちでもないし、なんなら機知に富んだ冗談の一つも言えてしまう。
アニメ・舞台版のワガママですぐに怒るけれど子供のようにピュアな心の持ち主であるビーストを良く知っている私からすれば衝撃的な野獣像だったのだ。

これ、なんで変えたんだろうか。
ベルは野獣が物知りだから惹かれた部分もあったの?自分と話が合うから?


舞台版ではベルは読み書きがほとんどできない野獣にアーサー王の物語を読んであげた。興味津々に彼女の朗読を聞く野獣のひたむきな姿はベルの心を溶かしてくれたし、野獣もベルのおかげで字を読むこと、本を読むことの素晴らしさを知ったのだ。
このエピソードをきっかけとして二人はお互いのことをもっと話すようになる。
王子だったはずの野獣がどうして文字も読めないのかという点については私は呪いで心まで獣になりかけていた野獣が人間だったころにできたことも忘れてしまったと解釈しているんだけれど、ベルの優しさに触れて段々と人間らしさを取り戻していく過程として文学に興味を持つという描写がとてもしっくり来るような気がしていた。



実写版は野獣が最初からインテリなので人間らしさを取り戻す、人間らしく精神的に成長していく描写が少し弱いなと思う。



アニメ・舞台版の野獣は過去の彼に何があったか、どうして彼がねじ曲がったのかも全く描写されていないけれど、ベルの周りの人と自分は違うという孤独な内面にシンパシーを抱く野獣の姿から彼がどんなに今まで孤独であったのかが会話の中でわかるようになっているのが好きだった。
実写版ではポット夫人の「優しかったご主人様はとても厳しいお父様に育てられてあんなふうにねじ曲がってしまったの」という台詞があるけれど、実写版の野獣そんなにねじ曲がってないんだよね。




◎ビーベルに追加された共通点


魔法の本でベルの過去へ

ベルの母はペストに感染したため、感染から逃れるためにモーリスはベルを連れてパリから田舎町に引っ越した

母を病気で亡くしたビースト、共感

「父上を泥棒などと、すまなかった」


でも実際泥棒やからな…
ベルがバラに思い入れがあったのは赤ちゃんのときにバラのガラガラを使ってあやしてもらっていたから、つまりそれはベルと母親の間に存在する唯一の思い出だった。
ビーストにとって自分の運命を左右する存在である「バラ」が結果的に二人を巡り合わせたし、バラはベルにとっても大切な存在だった。


いや~~~~そんなに設定盛り盛りにしなくてもいいんじゃないですかねえ…
そんなことよりヒューマンアゲイン(舞台版及びアニメディレクターズカット版で流れる超名曲)入れてくれよ。あれがないだけで私的にはマイナス100点。




シェイクスピアの一節から張られる伏線がロマンティック


ベル「愛は醜いものを美しく変える。愛は目ではなく心で観るもの」


だからキューピッドは目隠しをした姿で現れるらしい。
この一節はまさにこの美女と野獣という物語の結末を表しているわけで、素敵な伏線だよね。こういうの好き。



◎ベルは本当に「自由」だと思っていなかったのか


野獣「私のようなものがいつか君の愛を勝ち取れるのかと願ってしまうのは…」
ベル「どうかしら」
野獣「ここで幸せになれるのか?」
ベル「自由がないのに幸せになれる?父にダンスを教わったの。何度も足を踏んだわ」
野獣「会いたいんだな」
ベル「ええ、とても」
野獣「姿を観たいか?」(魔法の鏡を取り出しす)
ベル「私の父に会わせて!パパ…なにをしているの?パパが大変!」
野獣「すぐに行ってやれ」
ベル「なんですって?」
野獣「急いでいくといい。時間がないぞ」



このシーン、舞台版だと
野獣「私と一緒で幸せかい?」
ベル「ええ…でも」
みたいな流れでベルは幸せだけれど父親が心配だと告白してビーストに魔法の鏡を見せてもらってモーリスの危機を知る。
自由にしてくれるの?と聞くベルにビーストは「前から君は自由だった」と告げる。

実写版のベルが「自由がない」と思っていることが悲しかった。
だって一度彼の元から逃げて、逃げるチャンスはあったのに彼と一緒にいることをを選んだのはベル自身だよね。頭の良いベルなら自分が囚われの身じゃないことなんてとっくにわかっていたと思う。だからこそそんな言い方はしてほしくなかったな。




◎舞台版のビーストソロ曲『愛せぬならば』と実写版のビーストソロ曲『ひそかな夢』


愛せぬならばのメロディラインはもちろん実写版でもたくさん使われていて、余計にカットされたのが哀しかったけれど『ひそかな夢』もとてもいい曲なんですよね。
どちらの曲もベルが自分の元を去った直後に野獣が歌う曲なのに、彼が「人を愛するということ」を知る前と知った後ではこんなにも内心世界が変わるのかと思った。
この二曲を対比させて聴くことで野獣の変化について更に詳しく知ることができるので、二曲でひとつの曲だと言っても過言じゃない。実写版を観た人には舞台版もぜひ観てほしいな。今上演されてないけど!!
舞台版の、自分の境遇を強く呪い、自分のような醜い存在が愛されるはずがないと思う自己否定しがちな野獣の性格は『愛せぬならば』があることも大きかったんだなと改めて。

『愛せぬならば』
彼女の愛が 我が呪いを
解き放つことが できぬならば
救いなどは もういらぬぞ 
滅ぼせよ この身を

『ひそかな夢』
永遠のように 長い長い夜 
愚かと知りながら ひそかに夢見る 
彼女と迎える 愛の夜明けを


真実の愛を学んだ野獣の心に芽生えた微かな希望がこの物語の結末を予感させてくれると思いませんか?



◎魔女アガットの存在

アニメ版の「一夜の宿を断られた」という理由だけで王子を野獣に変えた通りすがりの魔女という設定は確かに横暴すぎるよな!
まあでも古今東西魔女というものはそういうものじゃないだろうか。この物語が伝えたいことって「他人と違う価値観を持った人間の生きづらさ」と「外見に囚われないで内面を見ることの難しさと大切さ」だと思うので魔女の存在は物語を創出するための単なるきっかけに過ぎない。
でもあの魔法のお城が忘れ去られていたのは魔法のせいで、魔法が溶けたことで村の人たち皆が思い出すという設定は自然で良かったと思う。
アガットはきっと魔女というよりも心の本質を見定めて人間を導いてくれるような存在で、王子の過去も全て知っていて性根の優しさにも気付いていたからこそ彼が変わるきっかけを与えたかったのかもしれない。だから村に滞在して、彼を変えてくれる存在が現れるのを待っていたのかな…とかぼんやり思いました。



◎ルフウをゲイにしたことの是非について

LGBTのキャラクターが登場しただけで上映延期や禁止、R指定にする国があるという事実こそが、この作品に出てくる「個性を排斥して変わり者だと疎んじる村人たち」のような存在を結果的に強調しているなんて凄い皮肉だな、と感じます。
ルフウがゲイであるかどうかが重要なのではなく、彼が人とは違う価値観を持っていたことと、それを受け入れたことが重要なのではないだろうか。

ルフウはアニメ版よりも大分「いい人」として描かれていて、ガストンを好きだから
こそ彼に従っているけれど本当はこんなことしたくないし最後まで迷っていて、最終的には彼と決別する。ガストンと村人たちが野獣退治のために城に攻め込むときも一人だけ彼らの異常性に気付いている。それはルフウもベルと同じで「他人とは違う自分」について悩んでいたからかもしれない。






まあ色々とそこはどうなの?と思うところもあったけれど、野獣が王子に戻るシーンは何度観ても泣けるしアラン・メンケンはやっぱり天才だと思います。吹替についてはまあ、うん…話題性と実力を兼ね備えたキャスティングに拘り過ぎたんじゃないかな…