Comment lui dire

アラビアンコースト

舞台版アラジン強火オタクによる実写版アラジンの感想。


ガイリチ…ほんと…なんで…どうして……(今際の言葉)


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とりあえず公開初日に吹替版観て、先日もまた吹替版観てきました。
次は字幕観ます(どれだけ観るの???)










※ このエントリはガイ・リッチー監督のディズニー実写版『アラジン』に対するネガティブなコメントが山のように森のように沼のように多めなので注意してください。


なおかつ、ミラクルハイパーアルティメットネタバレしてます。





まず最初に言っておくと、私は実写版のアラジンについては受け入れ難い部分の方が多かったです。
25年前の作品だということを踏まえて、時代も変わったしアニメ版から一切改変がないままリメイクされるとは当然思っていないということはあらかじめ言っておきたい。ただ本当に、個人的な意見として、原作リスペクトを感じなかった。私がアラジンという作品に求めていた部分が悉く削られて、キャラクターの人格も変えられていたから。この作品に求めるものは人によって違うし、私が求めているものは重要視されなかった。それだけのことなんだと思う。
たぶん「アラジンはわりと好きだから実写版も楽しみ」とか「アニメ版観たことないけど監督ガイリッチーだし観てみよう」くらいのスタンスで行けば普通に楽しめると思います(ガイリチみはかなりあったと思う…)。
問題は拗らせたオタクが見た場合なんだけど、拗らせたアラジンオタク、たぶんそんなにいない。いやまあ、楽しい部分もあったし良改変だと思うところもあったしそれなりに楽しめたよ。プリアリとか豪華だったし、プリアリとか豪華だったし、プリアリとか豪華だった。


(正味な話、FLMもプリアリも舞台版の方が豪華じゃないですか???)



美女と野獣の時も言ったけど、ディズニーは既に90年代から多様性を重視した物語を展開していたし、アリエルもベルもジャスミンも王子様を待つだけのプリンセスじゃない自立性の高いヒロインだった。その当時は言葉がなかったけど、ディズニーはいわゆるポリコレへの配慮をずっと怠らなかったんですよね。
あれから20年以上が経過して、実写版の美女と野獣はベルが女の子に読み書きを教えていたり、ルフウの性的志向がマイノリティになっていたり、物語の流れをなるべく変えずに人物造形に深みが増すようなポリコレ要素が加えられていた。黒人が多く起用されていることも私はそこまで気にならなかった。そこにリアルを求めるならキャストにフランス人を起用してフランス語で話すべきだけどそんなことをするはずがない。それなら人種にこだわる必要もないと私は思うから。


ただアラジンについてはポリコレ云々以前の問題で、主人公の存在感が薄くなるだけに留まらず人間性に魅力を感じないキャラクターになってしまったのが一番の問題じゃないだろうか。






◎プレミアム吹替版について


軽い感じの感想から攻めますね(?)


アラジンは… そうだね!歌はアレだね!
でもそれは私が一孝さんという天性のアラジンボイスが歌うOne jumpや島村さんという圧倒的声量の持ち主によるホールニューワールドを死ぬほど聴き込んでいるせいもあるので、まあ、うん、その…あれ…One jumpは悪くなかったと思うよ…そもそもの編曲が微妙だし演出がダサイから歌唱力にまで意識が及ばずに済むというか…
ただ、私は普段舞台を見ていて歌唱力をあまり気にしない方なんだけど、オーディションで選んだことを強調するならせめてもう少し上手い人を選んでほしかったなと思う。中村さんが大人気で集客力があるから選びましたって言いきってくれるならまだよかったけど。
演技は悪くなかったけど、チャラさではなくヘラヘラした一本気のなさが目立つ口調だったので私好みのアラジンではなかった。ただ実写版のアラジンのキャラクターにはよく合っていたので気にならない。
晴香ちゃんは演技面は言うことないですが、スピーチレスはちょっと声が高すぎてジャスミンっぽくなかったかな…。
山寺さんに関しては正直アニメ版の声のトーンよりも好きだったりする。アニメ版のジーニーはマスクのジム・キャリーにしか見えないので…笑(マスクの方が後だっけ?)



訳詞はうん…その……はいこの話終了!!!!




◎アラジンとジーニーの希薄すぎる関係性について考える




ダリアって誰や




すみませんなんでもないです。


私がアラジンという作品に一番求めているのは、アラジンとジーニーの友情物語だったのだと改めて気付かされました。アラジンという決して完璧じゃないけど心優しい青年がジーニーに助けられて葛藤しながらも最後は本当の自分を解き放ってジーニーを自由にする。ジーニーは今までの主人とは違う特別な感情をアラジンに抱いて、自分を犠牲にしてでもアラジンに幸せになってほしいと願うようになる。二人の関係は持ちつ持たれつなのだ。
実写版において、ジャスミンの侍女としてダリアという女性が登場した。ジーニーは彼女に出会った途端に好意を抱く。いわゆる一目ぼれというやつだ。アラジンへの協力を渋っていたジーニーだが、彼女とデートするためにアラジンに協力するようになる。

この時点でジーニーからアラジンへの感情は見返りを求める友情になってしまったのだ。監督がガイリッチーだからと言ってアラジンとジーニーのブロマンスを熱望しているわけじゃないし(ちょっとは望んでたけど…)ジーニーが恋愛することを否定しているわけでもない。アラジンに協力する理由に見返りを求める気持ちが少しでも入ってしまったことが嫌だった。だってジーニーはアラジンの人間性に惹かれているわけじゃないとわかってしまったから。
ジーニーがアラジンを信じてみようと思ったのは、君なら願い事を何のために使う?と聞いてくれた初めての御主人様だったからじゃないの?ランプの魔人ではなく対等な存在として見てくれたからではないの?

実写版でもちゃんとこのくだりはある。それなのに、ジーニーはアラジンに対して塩対応を取り続ける。王子になってからも失敗続きのアラジンに対して「穴があったら入りたい」だの平気で抜かす。ダンスパーティーではあろうことか「パーティーを楽しみたいからやらかすなよ」みたいなアニメ版や舞台版のジーニーなら死んでも言わないようなことを言う。そしてジャスミンのために協力してほしい、友達だろ?と言われても全然乗り気じゃないジーニー。でも一目ぼれしたダリアとデートするためならと協力する。

だからジーニーはアラジンのことを「アル」とも呼ばない。
アラジンは「ジーニーにとっての王子様」でもない。
(アル呼びとこの台詞がなくなっていたことが一番悲しかったんだけれどこのアルジニの関係性じゃ仕方ないなと納得しました)


実写版のジーニーは「自由になりたい」という願いの先に「人間になりたい」「人間らしいことをしたい」という感情がある。
ジーニーの「自由になりたい」という願いを「人間になりたい」に変える必要性はあったのだろうか。それとも自由になること=人間になることなの?ジーニーってそんなキャラなの?ダリアと恋に落ちるというプロットがまず最初にあって結婚させたいから「じゃあ人間にしよう」ってポンと思い付いたようにしか思えないんだよね。
ジーニーはさ、ずっと囚われの身だったから自由になりたかったんだよね。世界中色々なところを見て回るのが夢だったんだよね。それなのになんのエピソードもなく一目ぼれした女性のためにアラジンに協力して、最後には結ばれてしまって数年後に船の上で子供たちに語るのだ。なんだそれ。ジーニーにはアラジンの物語を何千年も語り継いで、どんな長い年月が経とうともアルは唯一無二の友達だと言ってほしかった。


ジーニーもだけどアラジンにも全然感情移入できなくて、まずアラジンの根底にある感情が原作と違うように思えてならない。アニメ版では泣く泣くカットされたけど、舞台版のアラジンは「母さんの自慢の息子になりたい」「だから変わりたい」という設定があって、変わりたいという気持ちを原動力にして、だけどすぐには変われなくてたくさん葛藤して迷って成長していくキャラクターなんだよね。舞台版ではアニメ版のアラジンをベースとして更にアラジンの弱い部分をクローズアップして感情移入しやすいキャラになっているんだと思っていた。
実写版のアラジン、一番の原動力が「野心」になっているのが凄く残念だった。One jumpリプライズの吹替歌詞の「いつかわからせてやる 僕が凄いやつだってことを」がまず上から目線すぎて違和感があったのだけど、アニメ以上に心情の吐露が少ないせいで貧乏な暮らしから抜け出して這い上がることだけを考えているように見えてしまう。というか、ジャファーにも「自分と似て野心家だ」と指摘されるシーンが追加されたのでそうなんだと思う。
その割に王子に変身してからもひたすら情けない姿を披露し続けてしまうことにキャラクターとしての一貫性を感じない。アラジンって本当の自分を隠しているキャラだよね?だから外面を着飾ることで偽りの自信がつくところが好きだった。ジーニーとの関係も全然対等には思えないし、終始アラジンはジーニーに頼りきりだった印象が強い。私の好きな頭が良いアラジンはどこに行ったんだ。ジャスミンとの結婚に尻込みしてジーニーを自由にできないと告げるときも嘘をついたことを全然悪いと思っていないどころか「あんな生活を続けろって言うのか」みたいに平気で逆ギレしてくるようなやつである。あのシーンであれだけヘラヘラしているアラジン像を作り上げたガイリッチーを小一時間問い詰めたいけれど、ジーニーも「君のために掟を破って二つ目の願いを使った」的な恩着せがましいことを言ってきたので私の心は死んだ。



結論:どっちもどっち




◎ディズニーのポリコレに対する行き過ぎた努力を全て背負わされた王女の話


ジャスミン~~~~!あんな厳しい警備でどうやって冒頭城から逃げ出したの????そしてどうやって帰ったの????
(アニメ版と舞台版は警備ゆるゆるなんで…)(ファンタジーのいいところ)
あとラジャーという友達がいるのに侍女の友達いるか~!?ラジャーの存在とは???


ジャスミンが国王になるという展開自体に文句はないことは言っておきます。


アニメ版もミュージカル版もジャスミンは聡明で人を思いやる気持ちがある素晴らしい女性だという認識があった。舞台版では女性が国を治められないことを嘆く一面もあるけれど、彼女が求めている自由の本質は「王女という肩書きでなく、自分の内面を見てもらうこと」なのだと思っている。女性であるというだけで国を治められないこと、王女というだけで自由を奪われしまうこと、外面しか見ない頭が空っぽな男に求婚されること…
ジャスミンの悩みは肩書きや性別に縛られずに内面を評価してもらえることでいずれも解決できる。自分の意志を自由に表現でき、内面を評価される世界の実現を彼女は望んでいたのだ。もちろんその先にある自分が王位を継ぐという未来を見据えていたかもしれない。


ところが実写版のジャスミンは「サルタンの跡を継いで王になりたい」という明確な目的が最初からあって為政者として相応しい能力をつけるために努力して知識をつけてきたという設定に改変されていた。求婚してくる能天気な王子よりも国を治める力があるという自信もあった。
「女性だという理由で奪われた権利を取り戻して王様になる」という強い意志はクローズアップされたけど、その代わりジャスミンが持つ度胸や聡明さや優しさを彼女自身の行動で示すシーンがなくなってしまったのがとても残念だった。アラジンがジャスミンを好きになったのって、ビジュアルだけじゃなくて屋根から屋根へ飛び移る度胸があったり、アラジンの咄嗟の行動を読み取って機転を利かせてくれる頭の良さに惚れ込んだからだよね?実写でも「彼女は頭が良くて」ってジーニーに惚気けるシーンあるし…。でもそこまでにジャスミンの聡明さが見えてくるシーンはない。
冒頭市場で何の危機感も持たずに子供たちに売り物のパンを差し出してしまうことにも疑問を覚える。原作は世間知らずのお姫様だけれど、実写はそうじゃない。人の上に立つことを目標としているならもう少し思慮深くあってほしかった。


新曲のスピーチレスはすごくいい曲なんだけど、ジャスミンが何をしたかというとあの曲で「自分の意見を主張した」だけなんだよね。ハキーム(誰だよ?)へのお説教も唐突すぎるし。ハキーム自体は悪いキャラじゃないのでもっとサルタンやジャスミンへの忠誠心や絆が見えてくるエピソードでもあれば違ったけどそれもないし。まあそんなオリキャラのエピソード入れるくらいなら主人公の心情を掘り下げてほしいんだけど!


ところで先程も言及したのですが、この物語の主人公はアラジンという青年です。
ジーニーでもジャスミンでもない。今まで通りプリンセスを主役にしたいなら「シンデレラ」や「ムーラン」と同様にタイトルを「ジャスミン」にしたらいい。
でも、この物語のタイトルは『アラジン』だ。アラジンという貧乏だけど心は綺麗なダイヤの原石の成長物語なんやで……



もうさ…タイトル『ジャスミン』に変えたらよかったよね…それならアルジニの友情が疎かになってもまだ納得できたよ…できないけど…





◎コンプ持ち復讐心メラメラ小物ジャファー様とかわいくないイアーゴ




みんな大好きジャファーゴちゃん、ただの主人とペットになる。


ガイリチの性癖案件として話題のジャファー様ですが、別に性癖ぶち込まなくていいから原作に忠実にしてほしい。
キャラの設定を掘り下げるのはいいけど、人格変えるのやめようよ!?
そして「二番目」という言葉に反応して切れるジャファー、お前は「腰抜け」って呼ばれたらキレてやらかすマーティーか!!!!(BTTF)


かつて盗賊として苦しい暮らしをしてきて隣国での投獄経験もあるジャファー様だけど、その身分から国務大臣にまで上り詰めたのだからお前は十分立派だよ!!!!!
何がジャファー様を「二番目ではダメだ」と妄執的になるまで思い込ませたのかまでは詳しく語られていない。たぶん色々あったんだろうな。しかし語られていないのでジャファーはただの「二番目って言われるとキレるおじさん」である。
そんな「二番目おじさん」ジャファー様はアラジンにかつての自分を見出して、どん底から抜け出せると唆した。だけどそもそもアラジンは魔法の洞窟曰く「ダイヤの原石」だぞ。その時点で自分とは違うことに気付いてほしい。まあダイヤの原石に到底思えなかったから一歩間違うとジャファーになりそうだけど。

イアーゴはリアル路線を狙ったんだろうか。ただの頭がいいオウムと化していたしジャファーとの間にある歪んだ絆は一切感じられなかった。ていうか機械的な喋り方なので逆に怖い。最後にジャファー様がイアーゴをランプの中に引きずり込むのは原作と同じだけど、二人の関係性がドライすぎるので特に何も感じない。ただ実写イアーゴ、めちゃめちゃ有能である。たぶんこの話で一番有能。女が国を治めてもいいなら鳥が治めてもいいだろ!よくないか!(ヤケクソ)




◎その他
・アブーと絨毯がかわいい
もうそれだけで100点満点だよ!!!!!!!!!
アブーに関してはまあわりと不満はなくはないけど絨毯とセットでかわいいし、絨毯はよくぞ無機物をあそこまでかわいく描けるなとディズニーの真骨頂を思い知りました。
・One jumpのコマ落ち演出がダサすぎる
あのナンバー疾走感が重要だと思ってたんだけど。聞いてる?ねえガイリチ聞いてる???あの演出はアラジンでやらなくて良くない?
・FLM、地味すぎる
ビーアワの時にも感じた色調の地味さをFLMにも感じてしまう。なんでそこで落ち着いてしまったのか。フィナーレのアルジニが一緒にジャンプするシーンは逆に愛しく思えてきた。なんなんだあのジャンプ。
・洞窟脱出するときのジーニーを騙す方法わかりづらくない???
原作通りジーニーを煽る方法じゃダメだったの?ジーニーの純真さが垣間見えるシーンで好きだったのに。
ジーニーの魔法でアラジンの正体はわからないようになっているけど、内面が輝きだしたらわかってしまうという設定
ええやん…(ウエメセ
舞台版でアラジンはジーニーに「王女様を怒らせちゃった」と泣きつくんですけれど、ジーニーは「今すべきことはアリー王子からアルに戻ること」「そのままの君でいればいい」とアドバイスする。それと同じことだよね。アラジンは内面を隠したがっているけれど、ジャスミンが惹かれたのは優しくて頭が良くて包容力があって一緒に世界を見ようと言ってくれたアラジンだったのだ。実写だといまいちわからんけど。
・ジャファー様、アルティメットまどかになる
ジャファー様の最後のお願い、原作では「ジーニーにしてほしい」というはっきりとした願いだったと思うんだけど実写版だと「宇宙最強にしてくれ」みたいなことを言うので概念的な存在になるのかと一瞬思った。ちゃんと魔人になったので安心しました。
実写版では曖昧なお願いをジーニーが都合よく解釈できるという設定があって、つまり「宇宙最強=最強の魔人」だと解釈されたわけである。アラジンに唆されて「ジーニーになりたい」なんてお願いをしてしまう狡猾なジャファー様らしくない一面も私は好きだったけど、ジーニーに都合よく願いを解釈されてしまうことを知らない(=ジーニーと意思疎通ができていない)が故に強制的に魔人にさせられてしまうジャファー様は実に「らしい」と思います。
・実写ジーニーの力の設定がいまいちわからない
ご主人の正式なお願いじゃなくても魔法を使いまくっているので(ダンスさせたり地図にアバブワ国載せたりとか)たぶん自由に魔法が使えるんだと思うけど、だとするとアラジンが溺死しそうになったときに無理矢理二つ目のお願いを使わせたことを疑問に思ってしまう。
アニメも舞台もお話が強引に進むところあるけど、実写はリアリティに特にこだわっているように思えるのでもう少し細部の設定に整合性を持たせてもよかったと思う。




◎余談(One jumpリプライズの歌詞について)

Riffraff,Street rat.
I don’t buy that
If only they’d look closer
Would they see a poor boy?
No,sirey
They’d find out
There is so much more to me…


クズだとかドブネズミだとか
そう言われているけど
もしもっと僕をよく見てくれたら
ただの貧乏人に見えると思う?
いや、違うよ
僕はきっともっとできるってわかるはずだよ…


(アニメ版)
クズだとか泥棒だとか 落ち込むけれど
きっといつかは 変えてみせるぜ


(四季版)
こんな風に馬鹿にされて 生きていくのか
今は貧乏だけど 心は貧しくない



やっぱり実写版の「僕がすごいやつだってことを」違和感ありすぎない????このアラジン絶対POYB歌わない。まあ歌わないけど。自分のポテンシャルを信じていると同じくらい自分がダメなやつだってめちゃめちゃわかってるのがアラジンだよ!!!
あと四季版の歌詞やっぱり最高(フィルター)。





◎まとめ

劇団四季のアラジンは最高だぞ!!!!
www.shiki.jp