Comment lui dire

アラビアンコースト

映画版『キャッツ』は猫オタ的には最高の実写映画化でした(ネタバレ)

f:id:koutei_C:20200127134913j:plain

原作リスペクトに欠ける実写化を生み出し続ける昨今のディズニーに幻滅した私にとって、トム・フーパーへの信頼が絶大なものになった実写版のキャッツ。
そうですね、残念ながら世間の評判はすこぶるよくありません!!!!!!!
そもそもダンス演目であるこの作品、ライオンキングのように本物の動物を使って撮影してしまえば「人間が猫に扮してダンスで猫という生きものを表現する」という作品の最大の魅力が損なわれてしまいます。舞台という限られた表現しか出来ない場だからこそ輝くミュージカルであって、実写映画化にはとことん不向きなのです。実際、映画館の大スクリーン上に表示される猫のような人間たちが本物のロンドンの街角で猫として踊る姿はシュール以外の何物でもありません。


だけど私は言いたい。
映画版『キャッツ』は最高の実写映画化であったと。
ありがとうトム・フーパー
お布施で英国王のスピーチの円盤買うぜ…!!!(円盤を買うことで応援していると勘違いしがちなオタク)



アメリカでは映画評論家や記者に酷評されたことを皮切りに、インターネッツ上でも感想大喜利が繰り広げられている映画猫ですが、そもそもキャッツという作品自体絶大な人気を誇り続け30年以上ロングランを続けている国は日本だけですよね。
本国イギリスですら今はロングラン公演していない。
私は日本のキャッツ最大の魅力は猫たちのかわいさにあると思っていますが、どうやら世界的にもビジュアルのかわいさは評価を受けているそうで。日本人特有のオタク気質、いわゆるキャラ萌えという概念にぴったりと合致するミュージカル、それがキャッツです。
つまりオタク向けミュージカルなんだよ!!!!



※非オタの有識者によるコメントの一部抜粋


ロサンゼルスタイムズ記者
「キャストが『幸せって何かを思い出した』と歌っていたが、劇場の出口の光を見たときにも同じことが思い出せるはずだ」


The Beat記者
「キャッツはゴミ映画である。」


SlashFilm記者
「バカと天才は紙一重というが、キャッツとはその紙の上に毛球を吐き捨て、それをケツでなすりつけてくるような映画だ」



さすがに酷くない??????
お前らの血は何色だ????罵詈雑言にも限度ってもんがあります。
これサッカーの試合だったら一発レッドやぞ。


猫たちが万人受けするビジュアルではないという点を差し置いても、物語や楽曲に関しては舞台の雰囲気が全く損なわれずに再現されているため、ビジュアル以外の面を批判するということはもはや『キャッツ』というミュージカルそのものが受け付けないということになります。
万人受けする話でもないし受け付けない人がいるのは仕方ないのですが、キャッツの舞台ファンでもあるトム・フーパーのキャッツ愛が充分過ぎるほどに伝わってきたこの映画に対して、舞台版をひとかけらも知らないような人たちの「俺たちは映画通だから何言ってもいいんだぜ!」みたいな雰囲気はかなり胸糞が悪かったです。
何がキャッツはホラー映画だよ。ホラーなめんじゃねえぞ。







◎キャッツとは?


ストーリーがないと言われているキャッツ、決してそんなことはありません。ストーリーがないのではなく、「ストーリーがわかりづらい」と言った方がいいだろうか。
今は世界中で創作物に対するわかりやすさを重視する傾向が強いですよね。現実世界では価値観が多様化しているのだから物語も見る側の解釈に委ねられる余韻が増えてもいいと思うのですが、人間は現実にはないものを求めがちなのかな。


そんな「わかりづらい」キャッツはざっと言えば、年に一度ロンドンのゴミ捨て場に集ったジェリクルキャッツたちがジェリクル舞踏会を開催する話です。
舞踏会の最後に長老であるオールドデュトロノミーが特別な猫を一匹選びます。
選ばれた猫は再生を許され、天上に上り新たな命を授かることができると言われているのです。
ゴミ捨て場に集まった猫たちは天上に上るただ一匹の猫に選ばれるため、自らの持てる最大限の力を発揮して歌い踊るのです。
そんな中、一匹のみすぼらしい猫が現れます。
彼女の名前はグリザベラ。昔は名をはせた娼婦でしたが、今は年老いておちぶれ、猫たちから疎まれる存在になっています。
彼女自身も過去の栄光を思い出しながらみすぼらしくなった自分の姿を嘆き悲しむことしかできません。グリザベラを蔑み疎みながらも、猫たちは舞踏会を続けます。そしてもう一匹、犯罪王と呼ばれる凶悪な猫マキャヴィティも侵入して舞踏会を邪魔してきます。
彼の目的は一体何なのか。
そして、長老から選ばれる猫は一体誰になるのか――



物語の後半までは猫たちが自分を魅せるためのナンバーをそれぞれ歌ったり踊ったりして、それぞれが独立した自己紹介のような形になっているので、一見するとストーリー性が希薄のように感じますが、物語の終着点に到達するまでの一連の流れは意外にはっきりしているんですよね。そして「スルメ演目」という言葉はこの作品のためにあるのではないかと思えるほど、キャッツは推し猫を見つけてからが本番なのです。


映画版については更に物語性が強くなっていて、監督の「初見の人にもわかりやすい物語」作りを重視しようという意思を感じました。その辺りについては後述。




◎舞台版にはいない『主人公』を設定した意味


舞台版のキャッツは所謂群像劇になっているので明確な主人公はいませんが、映画版における主人公は新入りの白猫ヴィクトリアになっています。
ヴィクトリアは優しく純粋な猫で、皆からは疎まれているグリザベラに興味を示します。この役目は四季版においてはシラバブという生まれたばかりの子猫が担っていますが、彼女に比べるとヴィクトリアは年齢が少し上なのと、人間に捨てられて他所からやってきた存在ということで自分の居場所を求めているような雰囲気があります。
主人公を設定したことの意味はとても大きくて、初めてゴミ捨て場に訪れ、右も左もわからないヴィクトリアの視点を通して猫たちの舞踏会を体験することで「ジェリクルキャッツとはなにか」ということが漠然とわかってくるという意味で物語への感情移入度が自然に高められているんですよね。


全然高められないって?自分の感性を高めろ。


でも実際舞台版はね、「猫たちの世界を覗かせてもらっている」という箱庭のような雰囲気が強いので取っ付き難さは尋常じゃない。映画版はヴィクがわからないことを尋ねるとまわりの猫たちが教えてくれたりするのが自然で上手い演出だなと思いました。



◎グリザベラが選ばれた理由と、犯罪王マキャヴィティの存在について


おそらく、映画版と舞台版との一番の違いはマキャヴィティのキャラ解釈だと思います。
舞台版におけるマキャヴィティは目的がはっきりせず、度々乱入しては舞踏会を阻止してきて最後はオールドデュトロノミーを誘拐する。舞踏会を中断して特別なジェリクルキャッツを選ばせたくないという目的はあるのだろうけど、何故選ばせたくないのかは語られずにそこには想像の余地があります。
単なる愉快犯なのか、猫たちを憎んでいるのか、それとも再生を否定したいのか…
ところが、映画版におけるマキャヴィティは「自分が特別なジェリクルキャッツとして選ばれたい」という明確な目的がありました。そのため、候補になりそうな猫たちを次々と誘拐して縛り上げます。ところどころ出現して意味深な言葉を投げかけて消えたりするのでお前はさびしがりやなのか???構ってちゃんなのか???という気持ちでいっぱいになりました。
人間味(?)があるマキャ、好きだよ。
マキャの目的がはっきりしたこともまた映画版のキャッツに物語性を持たせる一因になりました。よくわからん目的で引っ掻きまわしてくる悪党もそれはそれで得体の知れない魅力があって好きだけれど、映画版のマキャの一番の魅力は「自分も赦されたい」と思っていることですよ。
誰よりも選ばれたくて、自分が相応しいと思っていて、強引な手を使ってでもそれを実現しようとして、それなのにデュトロノミーに「あなたは相応しくない」と言われて否定されてしまう。ヴィランながらその必死さは哀愁を誘い、マキャヴィティという悪役の新たな一面を観た気がしました。きっとあのマキャ、哀しい過去があるだろ。ティム・バートンバットマンの悪役に居そうなマキャヴィティだよね。


マキャも望んだ、赦されて天上に上るとはどういう意味なのか…キャッツにおけるわかり辛さの最大の原因はそこにあると言っても過言ではないです。
舞台版における「再生を赦され新しいジェリクルの命を得る猫は誰か」というフレーズを考えると、一見天上に上ることで命を召されてまた新しく生まれ変わるという意味にも思えます。でもあんなに楽しそうに懸命に生きている猫たちが存命中にはっきりと「生まれ変わり」を望むことに私は違和感があって、個人的な解釈としては…


『再生とは、自分自身と向き合い過去を受け入れて、新しく前に進もうとすること』


じゃないかなと愕然と思って観ています。それは宗教観として輪廻転生を信じる者にとっては前向きな死かもしれないし、一生懸命に生きていくうえで新しい一日を迎えるための単なる心構えなのかもしれない。
グリザベラは過去の美しかった自分の幻影に縋りついて自分の中にある残された可能性をずっと見ようとはしてこなかった。だけど映画版においてはヴィクトリアに手を差し伸べられて、新しい希望を感じることができました。自分の中で夜が明けつつあることを感じました。特別な猫を選ぶのはデュトロノミーだけれど、デュト様自身が選んでいるわけではなく選ばれる者の意思をデュト様は代弁しているだけに過ぎないのかもしれません。



マキャもいつかそうなれるといいよね…(いい感じでまとめた)




◎ミストフェリーズの成長物語として観るキャッツはいいぞ


トム……(※監督です)、もしかしてミスト担か????

何せミストのソロがこんなに多いキャッツを観たのは初めてですよ!!!ミストのソロが多いです。(大事なことなので2回)


主人公はヴィクトリアですが、その相手役ポジションに当たるのがマジシャン猫ミストフェリーズ。
ビジュアル的にミストが一番猫っぽくてかわいいですね。まあミストはどの世界においてもかわいいからな!!
新入りであるヴィクトリアに優しく付き添い、色々教えてくれるポジションなのだけど、ヴィクが最初から最後まで一貫して純粋で優しい女性であり成長の余地がないためか、物語における成長するキャラとしての役割をミストが一手に引き受けていてそれがまた最高に良い。
舞台版は天才的な才能を持った猫で、ポジション的にもバレエダンサーがやる役なのでセンターで踊っていることが多く必然的に才能ある自信家というイメージが付きがちなのだけど、映画版のミストは自信なくマジックも失敗しがち、臆病な黒猫として描かれています。

何せ自分で「天才的」とか歌っちゃう割にはやることなすこと全て上手く行かないのがかわいい!!!虚勢張ってるんだな。
ガスに「大ファンなんです」とか言っちゃうのもかわいい!!!

誘拐されたデュト様を奪い返すときも何度も失敗して、ヴィクやマンカスに「君ならできる」って励まされて初めて成功するんですよ。
仲間あってこその自分だと自覚することで本来の力を発揮できるミストなのです。


トム…そういうの…そういうのだよ…!
握手しようぜトム!!!!


舞台版におけるミストフェリーズは自信満々に魔法を披露してデュト様を奪い返しておきながら、その後突然自信なさげに俯いてしまうという演出があるのですが、監督もあの演出から「実は臆病で自信がないミストフェリーズ」という解釈を導き出したのではないかとさえ思います。この演出って四季だけでしたっけ?
トム…もしや四季オタか?
正味な話ね、キャッツを大好きな人が考えた「おれの考えた最強の解釈」みたいな一面があるんだよこの映画。あっこれただのファンムービーだ!!!





◎そのほか猫オタの戯言


・ゴキタップ、チャーリーとチョコレート工場と完全に一致
このGたち、ウンパルンパだ~!!!
人間姿のGが出てきて猫たちが食べる描写があることにはあるけど別に気持ち悪くはないです。G食べるシーンあるって言うからホラー映画オタクとして期待しちゃったじゃん。ホラーなめんなよ!(イキリオタク)
・新曲がめっちゃ良い
ビューティフルゴーストの存在も物語性の創出に一役買っていますよね。
ALWとは解釈違いで喧嘩することもありますが基本的に絶大な信頼を寄せているので時々喧嘩する親友みたいなものだと思っていますね(何様)
みゆきちランペはシェンジじゃん???
シェンジちゃん????
・タガーはWE版新演出のラップ系のヤンチャボーイ
タガーの存在感は薄めなのでタガー好きな人からは物足りないかも。
でもミルクバーから出た直後にやっぱりミルクほしいとか叫ぶタガー、かわいすぎるやろ。
・マイナーバージョンのマンペルで泣く旧演出おたく
四季版はメジャーに変更させられたのに何で…???
四季版もマイナーに戻してほしいです。トム、四季版のスーパーバイザーやらない?(???)
・スキンブルの格好は何なの???
ベストとズボンを同時に着たら死んじゃうの????

まあ不満点がないわけでもなく、グロタイの扱いとかジェニエニドッツのキャラ変とか細かい点でやや不満はありますが、概ね満足してます。
ジェニ、ナイトミュージアム3のティリー(大英の警備員)に見た目もキャラもそっくりやなと思ってたら中の人が同じだった笑。




劇団四季『キャッツ』は大井町キャッツシアターにて絶賛上演中!!!